鼓動


しんと静まり返った夜のうたかた荘。
明神は白い息を吐きながら玄関の扉を開け、中に入ると鍵をしっかりと閉める。
玄関だけ電気が点けっぱなしになっているのは、深夜に帰ってくる明神の為に姫乃が配慮したもの。
姫乃が越してくる前までは、電気代も勿体無いしと全部消して仕事へ行っていた。
真っ暗な場所から真っ暗な場所への帰宅。
眠るアズミ達を見る度に暖かい気持ちになりながら、どこか寂しい気持ちにもなっていた。
初めて電気が点けられていた時は「おや?」と思ったものだが今ではそれが当たり前になっている。
戦い、疲れて帰って来る時にこの明かりを見ると、人間の温かさを思い知る。
死体は、二度程見たことがある。
どちらも見たくて見たものじゃなかった。
そしてそのどちらとも、亡くしたくない人たちのものだった。
霊に触れられる自分は、幸か不幸か生きた人間と死んだ人間の差を殆ど感じない。
たまに「生きている、死んでいる」といった事への感覚が希薄になっていると感じる時もある。
うたかた荘にいる限り、外の人間に触れない限り、あの霊達は自分にとって、「人間」以外の何ものでもなかったから。
くうくうと眠るアズミは、明神の目には普通の子どもが眠っているのと大差なく映る。
それが生きていた時の反応で「呼吸をしている」という、いわゆる「フリ」なんだという事は解っていても、そう見えるのだから仕方がない。
十味から言われた事があった。
「境目はちゃんと自分で決めておけ。死を恐れなくなった時、人はころっと死んじまうモンだ。」
年寄りの小言と「はいはい」と聞き流しながら、的を得ていると思う時もあった。
死体は、二度程見たことがある。
一度目は飛行機事後で。
自分だけを残して行ってしまった両親のもの。
二度目はそんな自分に居場所をくれた明神のもの。
死人、つまり霊。
それと生きた人間。
それらと全く違うのが死体だと思う。
魂が抜け落ち、どれだけ声をかけてもピクリとも動かない。
抜け殻になってしまったそれは冷たく、硬く、青ざめてまるで蝋人形だと思った。
むしろ霊の方が「生きた人間」に近いと感じてしまう。
だから、自分が生きているという証拠を時々見失う。
エージもアズミも、笑い、怒り、自分に対しては触れる事も話をする事もできる。
みえるものに線を引く事なんて出来ない。
触れられるのだからなおさらだ。
お前たちは死んでるんだよ、何て事、本人達が一番わかっている。
むしろ解ってないのは自分の方だ。
狂ってしまった自分の感覚。
どうやったら元に戻れるのかわからず己の命を持て余す。
今わかっている事は、そうなってしまっている事を自覚している事と、その事についてとても焦っているという事。
明神は混乱する頭で階段を見上げた。
何かに引っ張られる様に階段を上りだす。
ゆっくりと、壁をつたい、このアパートに住む唯一の生者の元へと向かう。
鍵はかかっていない。
無用心だと思うけれど、このオンボロアパートに侵入しょうなんて物好きもいない上、住んでいるのは姫乃一人。
後は管理人と死者達のみとなればわざわざ鍵をかける方が姫乃には煩わしかった。
家の中に、自分の部屋をあてがわれたという感覚。
明神はその感覚に感謝する。
今は管理人室に戻って合鍵を探す時間が惜しかった。
なあ、助けてくれる?
音をたてずにドアを開けると、中で眠る姫乃の側へと近づく。
布団の側まで来ると、しゃがんで寝顔を覗き込んだ。
部屋の電気は点けない。
窓から月の光が差し込んでいる。
暗闇に目が慣れるまで、明神はそのままじっと待つ。
少しづつ、姫乃の輪郭がはっきり確認できる様になった。
寒いのか、姫乃はしっかり首まで布団をかぶり丸くなって眠っている。
少しはみ出した姫乃の手を見つけると、それを布団の中へと入れてやろうとして、止める。
触れてしまった手が暖かい。
思わず握ると、眠ったままの姫乃が握り返してきた。
薄い皮膚から伝わる温度が、明神の手を温める。
自然と、頬が緩んだ。
すうすうと規則正しい寝息。
長い睫毛の横顔を目に焼き付ける。
呼吸、温度、頬の赤みも全部。
おずおずと手を伸ばし、首筋にそっと触れると、トクトクと手に伝わる脈動。
生きている人間の証。
生きてる。
生きてる。
ただそれだけの事がどれだけ大切でいとおしいものなのか、眠った君が教えてくれる。
すう、と、涙が出た。
自分が生きている事を実感できた喜びからか。
霊達が死んでいる事を実感した悲しみからか。
どちらとも自分にはわからないけれど、ただぽたぽたと涙が落ちた。
自分の中で、何かがコトリと音を立てた。
涙を拳で拭い、明神は立ち上がる。
月明かりの下で眠る姫乃をもう一度だけ見つめると、自分が入ってきたドアへと向かう。
音をたてない様に、静かに歩く。
無事、姫乃に気付かれずに部屋から廊下へと移動した。
ずるりと足を引きずる。
ふう、と大きなため息を吐いた。
気持ちが安心すると気が抜けて、立っていられなくなり、扉にもたれたままずるずると座り込む。
こうやって気持ちが揺らいでいる時の仕事は本当に危ない。
今日も楽に勝てるだろう相手に泥仕合いだ。
情けなくて額をピシャリと叩くけれど、ふつふつ湧いてくる感情は「嬉しい」に良く似ていた。
この血も痛みも「本物」であると。
座り込んだまま立ち上がれず、管理人室まで戻る事を諦めると、明神は黄布を取り出し治療を開始する。
経験上、治療すれば死ぬ様な傷ではない。
ただ、この傷を治すべきかどうか解らなくなっていた。
「アホだな。」
へっと自嘲すると、目を閉じる。
目を閉じると、瞳の裏に焼き付けた姫乃の横顔と温度が再生される。
あの規則正しい鼓動が自分の物と重なる。
この音は紛れも無く自分の物だ。
解っていた筈なのに。
剄をめぐらせると傷が少しづつ癒えていくのがわかった。
全身が軽くなる。
自分の存在を他人によって確認する事は、自分が弱い人間だからかそれとも皆そんなものなのか。
ふっと、先程案内してきた陰魄の事を思いだした。
光の群はぱっと広がって大気に還っていく。
いつか、あいつも土になって、花になって、虫になって、そうやってぐるっと回ってまた人間になるんだろうか。
今度戻って来た時は、もうあんな風になるんじゃねーぞ。
何かあったら陰魄になる前にここに来るんだ、相手してやっから。
そんな事を考えながら、そのまま明神は眠った。

翌朝。
明神は姫乃の悲鳴を聞いて目を覚ます。
背中に圧迫感。
姫乃がドアを開けようとしている様なのだが、明神の体がつっかえて開かない。
「あ!いけねっ…!!」
慌てて飛びのくと、勢い良く開いた扉に顔面を強打する。
「ぐおお!!」
「きゃあ!?」
扉と一緒に姫乃が転がり出てきた。
倒れた明神の上に姫乃が降る。
必死でそれを受け止める明神。
「だ、大丈夫!?明神さん!」
「…ひめのん…。おはよう。」
朝、目が覚めた姫乃は驚いた。
自分の部屋の入り口から布団まで、そして布団からまた扉まで。
何かを引きずった様な血の跡がベッタリと付いていた。
壁にはどす黒い手形が幾つも。
それはまるで、血まみれの何者かが眠る自分の側まで来て去って行った跡。
鏡を覗くと首筋と手にも血の跡が付いている。
さすがに、ゾッとした。
悲鳴をあげてドアから出ようとすると、何かが引っかかって押しても押しても扉が開かない。
…これはちょっとしたホラー体験。
「本当に、本当に、怖かったんだから!!!」
涙ながらに訴える姫乃。
ごめんごめんと謝る明神。
「でも良かった。…傷はもう治ったんだよね?」
「八割がた。もうへーキ。」
わっはっはと笑って元気なところを見せると、姫乃はほっとした表情を見せた。
怪我して帰って、と説明した時は真っ青になっていた。
その時明神は、本当に自分は馬鹿だと自分を殴りたくなった。
「でも、私の部屋に何か用事があったの?あ!包帯一人じゃ巻き難かった!?起こしてくれたらよかったのに…。」
その言葉にビクリと肩を震わす明神。
姫乃なら助けてくれる気がした。
初めは胸に堪ってる物を全て吐きだして、泣き言言って甘えようかと思ったけれど、眠る姫乃を見ていたらそれだけで色んな事が解ってしまった。
忘れていた大事な事。
「…や、良く寝てたし。起こしたら悪いな〜と思って。」
「そうなの?…次は起こしてね!後で言われる方が怖いもん!」
「わかった。」
不法侵入だと怒られなかった事に驚きながらもホッとする。
どこまでも信頼されている様だ。
手や首に触れた事には何も言って来ないし墓穴を掘るのも避ける。
昨晩何を想い何をしたのかは黙っておこう。
「約束ね。こんな怖いのもう無しね。」
明神が苦笑いしながら頷くと、姫乃はやっと微笑んだ。
…強くなろうと思った。
何者にも負けない様に。
自分が今生きているという証拠はこの娘が与えてくれる。
きっと何度でも与えてくれる。
そうしているうちに、他の住人達が何かあったかと集まって来た。
壁をすり抜けて一番に現れたのはエージ。
目を擦りながらアズミ。
明神は立ち上がった。
いつも通りの騒がしい朝。
「悪ィ。起こしちまったか。」
何も変わらない朝。
けれど昨日までと少しだけ違うのは。
一つだけ違うのは。
「ごめんね〜。朝から大声出して。でも大丈夫だから。」
笑う君を見ると、不思議と駆ける、己の鼓動。





「30×15」さまから頂戴しました。先日描いた日記絵(Memo07/02/28分)をご覧になって書いて下さったものだそうです。ありがとうございます!もちろん一も二もなくお持ち帰り致しました!「ひめのんに依存してる明神さん」は大好物のネタなので興奮しながら読ませて頂きました。
というかこの頂き物、どう考えても私のあれとは釣り合わなさすぎじゃないですか?まさにエビタイ(海老で鯛を釣る)ですよね。


BACK / HOME