あらしのひ
今朝降り始めた雨は、勢いも治まらないまま今に至っている。
今日一日中、明神は良く言えば趣きのある、乱暴に言えばボロいうたかた荘の、屋根の事を心配し続けていた。
雨漏りが起こった事は今までに何度か。
その度に、屋根裏を這いずり回って大工の様な事をしなければならなかった。
どうせなら明るい内がいい。
昼間から、ちょこちょこ各部屋を周りチェックをしていたのだけれど、夜になり、深夜になり、もし今何か起こっても朝まで放って置くしかないという時間帯になって、もういいやという気分になった。
窓の外は大荒れ。
数分前に更に酷くなった豪雨と共に、雷が鳴り出していた。
パッと外が光り、少しの間隔を開けて轟音が響く。
地が揺れる様な音を聞きながら、明神はさっさと寝てしまおうと布団に潜り込んだ。
目を閉じて、しばしまどろむ。
不思議な事に、それが当たり前の事だと思い込むと、大きな音もあまり気にならなくなる。
むしろ、不安定ではあるけれど、ゆっくりとしたリズムで繰り返される雷の音に眠気を誘われる。
明神の意識が完全に眠りに落ちた時。
コンコン。
ドアをノックする音がした。
明神はピクリと反応すると、ぼんやりと薄目を開ける。
雷の音では目は覚めないのに、ドアをノックする微かな音には反応する。
明神の耳が「違和感」を捉えての反応だけれど人間は本当に良く出来ている。
ゴンゴン。
ドアをノックする音が大きくなった。
明神は立ち上がり、ドアを開けた。
ドアの向こう側、そこにはパジャマ姿の姫乃が立っていた。
何故ここに?こんな時間に?と明神が問う前に姫乃が口を開いた。
「明神さん、あの、お願いがあるんだけど…。」
パジャマの胸元をギュウと握り、何やら恥ずかしそうに頬を染める姫乃に、明神は全身の力が抜けるのを感じた。
これは悪夢の予感だった。
「あ、あのね。今…。」
その時、真っ暗だった廊下にパッと光が射した。
姫乃が撃たれた様に跳ね上がる。
「あ!あ!お願い!!入れて!入れて!早く!早く!!」
呆然とする明神の横をすり抜け姫乃は管理人室に駆け込むと、先ほどまで明神が転がっていた布団の中に潜り込んだ。
体を丸め、耳を抑えているのかタオルケットのシルエットがまん丸になっている。
ドドン、と大きな音がした。
明神はその音と姫乃の悲鳴を死にそうな気持ちで聞いていた。
暫くビリビリと空気が震える様な余韻があり、それが消えるとタオルケットの塊の一部が、少しだけ持ち上がった。
その隙間から、姫乃が顔を覗かせる。
「明神さん。今、雷、雷が凄くて怖くて。ここに居てもいいですか?」
やっぱりな。
絶望的な気持ちで明神は姫乃の言葉を聞いた。
この姫乃の台詞が今後導く未来は、明神にとって耐え難い苦痛以外の何物でもない筈なのだから。
「えーっと、あー。別に、構わないと言えば構わないんだけど。出来れば布団をもう一組。」
「あっ!また光った!!あっ!あっ!」
布団の隙間から細い腕がニュッと伸び、その腕が明神のシャツの袖を掴むと強い力で引っ張った。
「ちょ!ちょ!ちょ!ひめのん!!」
「ダメ!早く!雷が!!」
普段の姫乃からは想像もつかない力で明神は引っ張られる。
こういうのを火事場の底力だとか何とか言うのだろうけれど、実のところ、明神は逃げようと思えば逃げられる。
たかが16歳の少女の力。
本気で振り払えば、本気を出さなくてもちょっと力を込めて引っ張れば姫乃を逆に布団から引きずり出す事だって可能である。
可能だけれど、この細い腕が招く先は、明神にとって「行きたくないけど行きたい場所」なのだから始末が悪い。
明神の中で天使と悪魔が格闘を始めた。
一つの布団に男女が入るなんて、良く無い事だ。相手は高校生。何より雷にかこつけて、というのは少々大人気ない。自覚ある保護者ならばここは冷静に対処すべきである。雷を怖がるのならば側にいてやればいい。けれどこれより先は、自分で制御出来るのか?出来ないのか?良く考えて行動しなければ今後彼女と生活を共にする事は困難な事である。
馬鹿言っちゃいけない。ひめのんが怖いと言って、ひめのんの方から引っ張ってんだから願ったり叶ったりとはこの事じゃねーか。大体、まあ最悪の事態を想定したとして、まあとりあえず今布団に入っちまう位問題無いんじゃねーの?まず引っ張ってんのひめのんだからね。ここ重要な。大丈夫大丈夫。大丈夫だって。とりあえず、布団に入るだけ。な?
ドゴーン。
明神は、タオルケットの中に居た。
腕の中でもぞもぞと軟らかい物が動く。
「ああ、怖かった。今の少し近かったよね。ちょっとづつ近づいてきてるよね。もう…何であんな大きな音が鳴るの?」
ぎゃあ、と明神は心の中で悲鳴をあげた。
部屋の電気は点きっぱなしでも、タオルケットを頭からかぶると少々薄暗い。
布団の中で見る姫乃は手足を縮こませ丸まって、巣の中のハムスターみたいだった。
「ご、ごめんね。暑いかな。でもこうしてたら安全だから。」
「あ、安全って?」
「綿って、雷を通さないんだって。」
「へぇ……。」
姫乃は明神を「危険」だとは認識していない。
この場合、明神が姫乃に何かしてしまうと、それは姫乃に対する大きな裏切りになってしまう。
明神はその事を百も承知だった。
ただし、頭と体が決して一致した働きをしないのが男の悲しいところであって、それも明神は理解していた。
やや白くなりかけた思考の先で、また光が部屋を射す。
「きゃ!!」
姫乃が悲鳴をあげ、明神にすがりつく。
気が遠くなる思いで明神は身を固める。
己をそそのかした悪魔を呪いながら、姫乃の触れる腕や肩や頬の感触を必死で遮断する。
触れてはいけない、近づいてはいけないと頭ではわかっていてそうしている筈なのに。
こんなに近くにいるのだから触れたい触れたいと頭の違う場所では考えている。
気が付くと、姫乃の背中に腕をまわしてしまっていた。
雷が鳴る度にしがみ付く姫乃から、くの字になって明神は逃げている。
けれど両腕が姫乃の肩を捕まえていて、姫乃も明神にしがみ付いている為にくの字の書き始めの部分は常に姫乃と繋がっている。
早くこの腕を解かねばと明神は焦った。
近づけば抱きしめたくなって、抱きしめればキスをしたくなって、キスをすればと転がり落ちる蟻地獄。
我慢が我慢を呼んで、更に辛い我慢を強いられる。
姫乃が部屋の入り口に立っていた時からこうなる事は解っていただろうと、泣きたい気持ちになりながら明神は必死で我慢する。
姫乃は姫乃で、その泣きそうな明神を見て、ああ、雷が怖いのは自分だけじゃないんだ。
頼ってばかりでごめんなさい、と更にきつく明神を抱きしめる。
タオルケットの塊は、逃げる、追いかけるの二つの動作で部屋の中を動き回っていた。
何か違う事を考えて気を紛らわそう、という作戦を明神は立てた。
頭の中で記憶を過去に引っ張ると、幼少時代はいい思い出と呼ばれる物が少なくてやや寂しくなる。
かと言って、最近の記憶を引っ張ると、何を食べた、何をした、と、生活の全てに姫乃が関係していて全く効果がない。
先代との修行を思い出して凌ごうとすると、雷が鳴って姫乃が強くしがみ付く為最終的には効果が無かった。
「ねえ、雷、近づいてきてるよね?光ってから音がするまでの間隔がね。短いと…。」
姫乃の説明の途中で大きな雷が鳴った。
空が光るのとほぼ同時だった。
その瞬間、今まで部屋を照らしていた照明がフツリと消えた。
停電。
姫乃が短い悲鳴を何度もあげた。
近くに雷が落ちたらしい。
鼓膜がビリビリと痺れている。
耳の痺れが取れるにつれ、雨の音がやけに大きく聞こえてくる。
一つ感覚が失われると他の感覚が鋭くなるとか何とか、今はやたらと触れるもの、聞こえる音がはっきりと感じられる。
ざあざあと、雨の音。
それに混じって、姫乃が呼吸をする音。
ふ、ふ、と一定のリズムで呼吸をしている。
姫乃の肩が震えているのが、触れている場所から伝わってくる。
それから、暖かさだとか、軟らかさだとか。
姫乃の呼吸のリズムが狂い「こわい」という声が聞こえた。
神様は、良く良く人を試す方なのだ。
明神の理性と本能が一騎打ちをする。
明神はどちらの応援も出来ないけれど、頬を抓る、違う事を考える、唇を噛む、頬を叩く等、必死の抵抗を試みた。
ガクでもエージでも誰でも、誰か誰でもいいからオレを殺してくれ!
そんな事を考えて、ああ、他人任せだからいけないんだな〜、と考え直した時は既にキスをした後だった。
「……え?」
思った通りの反応に笑いがこみ上げる。
苦笑いだった。
抵抗したらやめようと、それだけ決めて明神は姫乃を抱きしめた。
抵抗する気配のない姫乃に、これで最後にしようともう一度だけキスをして、キスをすると手放すのが惜しくなってもう一度抱きしめた。
腰に手を回して、首筋に口付けて。
それでも何も言わない姫乃に、明神の頭が少しづつ冷えていく。
やっぱりやめときゃ良かったと後悔するのは容易くて、でも時間は戻らない。
まだ雷は鳴り続けていて、それでも姫乃は悲鳴をあげるのを忘れて固まっている。
明神は、ゆっくりと腕の力を緩めた。
「あの…ひめのん。」
明神が何か言おうとした時、姫乃の口がパクパクと動いた。
「あんまり、びっくりして……。雷、怖いの飛んじゃった。」
らしいと言えばらしくて、けれどその言葉を明神は、これ以上は無理ですよ、という意味だと受け取った。
「そっか。…部屋、戻る?」
この戻る?は、戻った方がいいよ、と姫乃に促している。
姫乃は、あ、と口を開け、少し悩んだ顔をした。
「や、あの。さっきの事は忘れて。ホント、むしろ次は我慢出来ないというか、自信ないから。ほら、逆に助けると思って。」
「え、あ、ああ、う。」
明神の言わんとする事を理解した姫乃は、それでも頭を抱えて何かに悩む。
「どうしたの?」
「そ、それって、今ここから出て行ったら、明神さんと、その、キスとかするの嫌って事になるかなって。」
雷が鳴った。
「……いいの?」
ぐいっと身を乗り出す明神。
少し逃げる姫乃。
「え?え?い、いいとか、悪いとかじゃなくて。あの。」
「…うん。だよな。悪い、ゴメン、ありがとう。」
明神は立ち上がると姫乃の手を掴んだ。
そのまま姫乃を引っ張って、階段を上る。
姫乃の部屋まで連れて行き、中へ入れ、布団の中へ押し込む。
部屋の電気はつけていない。
時々、稲光で部屋が明るくなって、その時見える姫乃の顔は、とても困った顔をしていた。
「ホント、ごめんな。オレ、ひめのんの事、女の子って見れなくなってるから。ごめんな。」
「あの。」
「じゃ。おやすみ。もう怖くないか?」
「う、うん。」
「良かった。」
にっこりと笑うと、明神は部屋を後にした。
階段を下りていく足音がどんどん遠ざかっていく。
姫乃は、その足音が戻ってきてくれるんじゃないかと耳を澄ませたけれど、最後に聞こえたのは管理人室の扉が閉まる音だった。
言いたい事をちゃんと言えなかった、そんな気がした。
まだ雷は鳴り続けているのに、もうあまり気にならない。
空が光り、大きな音がするまで大分時間がかかる様になった。
雷が遠くなっていく。
確実に雨足も弱まってきている。
姫乃は両手で顔を覆った。
雷の音で思い出すのは、あの軽く触れた唇の感触で。
そのせいか、遠ざかっていく雷の音を、何故か悲しく感じた。
はあ、と息を吐く。
姫乃は枕を掴み、立ち上がった。
あんなにも恐ろしいと思っていた雷が怖くなくなった。
今なら、あの光の中に飛び込む事だって出来るんじゃないかと自分に言い聞かせ。
しょんぼりと去っていった背中を追いかけて。
まだ間に合うと信じて。
扉を開け、階段を下り。
「管理人室」と書かれたプレートを何度か読み直し。
一度、大きく息を吸って。
小さな手を、拳の形に握り締めて。
管理人室のドアを、ノックした。
「30×15」さまから頂戴しました。日記絵(Memo07/07/17分)を元に書いて下さったものだそうです。自分の描いたものでお話を作って頂けるなんて夢のようです!明神さんの「ひめのんよりも大人であり、しかし同時に男である」ことの葛藤がばしばし伝わって来ました。男の方が悶々としてるのっておいしいですよね。
それから、厚かましいお願いにも関わらず、快くお持ち帰りOKの許可を下さってありがとうございます。
BACK /
HOME