水母(くらげ)
「今日も三十度を超え、非常に暑い日になるでしょう」と、連日代わり映えのしないことを天気予報が告げている。こんな日に依頼が来ないのは幸運ではあるのだろうが、それはそれで退屈だ。
これといってすべき事もしたい事もなく、共同リビングのソファにだらしなくのびてテレビを眺めていた明神の耳が、体重の軽さを感じさせる小さな足音を拾った。
「暑いなあ……」
奥から姿を現したのは、手でうちわを模して襟元に風を送る少女だった。いつもはきびきびと動く姫乃だが、さすがにこの気温の高さには音を上げそうになっているらしい。
「暑いよなー……」
明神も覇気のない返事をする。そのまままっすぐソファまで来た姫乃の為に場所を空けると、彼女は明神の隣に腰を下ろした。
「学生さん、夏休みの宿題ははかどってるか?」
ふざけた調子で問うと、姫乃は眉をひそめる。憂鬱さを全部吐き出すかのように、彼女は、はああ、と盛大にため息をついた。
「その様子じゃ今一つってとこか」明神が軽く笑った。
「……集中力続かないし課題は難しいしもう逃げたい……」
姫乃は抱えた膝に額を乗せ、体全部で「夏が恨めしい」と主張している。一階に下りてきたのも休憩と称した、言葉は悪いがサボりだろう。小さな体がさらに小さく見えて、その姿に明神の同情心が呼び起こされた。
「何の役にも立てないけど応援だけはしてるぞー」
励ましの意味をこめて姫乃の頭を撫でてやる。彼女の背を覆う黒髪は、熱をしこたま吸いこんでいるものとばかり思っていたが、予想に反してひんやりとしていた。それが滑らかな手触りとあいまって何とも心地よい。手を離し難くなってしまった明神は一筋髪をすくうと、指の間にそれを通し、するすると滑り落ちる感触を楽しんだ。
「明神さん……あの……もういいです」恥ずかしそうな姫乃の声が意識に届く。
「うおっ、悪い!」名前を呼ばれて我に返った明神は、不自然なくらい熱心に触ってしまっていた事に気付いた。半ばパニックに陥りつつも急いで手を離す。
「ううん、ありがとう」姫乃がはにかんだ笑みを浮かべる。「ちょっと頑張ろうかなって気になった」
「げ、元気になったなら、いいんだ。うん」
途中から目的がすり替わっていたことは姫乃には気付かれなかったようだ。被害者(と言っていいのかどうかわからないが)本人から礼を返され、明神は安堵した反面、少しばかり罪悪感を覚えた。ちくりとした痛みが胸を刺す。
あともう一つ、気付かれなかった事を残念に思う気持ちもあったような気がするのだが、それは勘定に入れない事にしておいた。
「ひめのんは夏が苦手なのか?」
ごまかすつもりは無いが、この気恥ずかしい空気を変えたくて別の方向から話を繋げようと試みる。
「うーん、どっちかっていうとそうかなあ。でも、東京の夏がここまで暑いなんて思わなかったよ。そうだ明神さん。ここ扇風機ないの?」
姫乃の顔にははっきりと「このうたかた荘で何度も夏を越したろうに何故」と書かれてある。これだけ考えている事が顔や態度に出る子は珍しい。なんとなく責められているような気がして、明神は目をそらしながら答えた。
「前はあったんだけど」「『だけど』?」「喧嘩した時にガクがハンマーで叩き壊してさ。以降は――」明神の顔に陰が差す。
「――買う金がない」
「……なるほど」
今度は腑に落ちたといった様子で大きくうなずく姫乃。あっさり納得されてしまった事に明神は、年長者および管理人であるはずの自分を情けなく感じた。
何だかいつも格好悪い姿ばかり見せているような気がするので、ここいらで挽回しておきたい。大人の余裕というか包容力というか、とにかくそういったものを姫乃に分からせなければ。
「ひめのん。そんなに暑いんだったら、なんか冷たいものでも買ってやろうか」
「えっ本当、いいの? やったー!」
現金なもので、姫乃はさっきまでの怠そうな表情とは打って変わって、急に目を輝かせ始めた。こういうところはまだまだ子供だな、と笑いをこらえながら明神は「いいよいいよ」と手を振って立ち上がる。
「ただし一つ条件があります。オレが買い物に行ってる間、ひめのんは宿題に戻るように」
「明神さんだけで行くってこと? 一人でなんて悪いよ、私も――」
申し訳なさそうにしながら、姫乃も立とうとした。それを手で制する。
「いーのいーの、勉強するのが学生の本分!」
素直な姫乃はすっかり感じ入ったように明神を見上げていた。大人だなあオレ、と明神が浸っている事など知る由もないだろう。ここにエージかガクがいたら「元ヤンの癖に勉強が本分とか言うな」と突っ込みが入るのは間違いない。
「じゃあひとっ走り行ってくっかな。何食べたい?」
「なんでもいいよ。おまかせします」
「オッケー」
玄関の扉を開けると、密度の高い熱気が勢い良く吹き込んで来た。思わず、あち、と言いそうになり、あわてて口元を引き締める。いい所を見せたい一心で平常を装いはしたが、やはり相当日差しが強いようで、敷地の外の道路に目を向けるとゆらゆらと陽炎が立っているのが分かった。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
後ろから優しい言葉をかけられ、うっとうしさはたちまち吹き飛ぶ。姫乃に背を向けているのもあって、頬がゆるむのを我慢出来ない。振り返り返事をしかけた明神に、姫乃の心配そうな声が重ねられた。
「セール品でいいよ。無理しないで」
本来なら労りの言葉と受け取れるはずだ。なのに、彼女の口から出ると陰魄の攻撃よりも堪えるのは何故だろう。純粋すぎる親切心から来ているものだから、なおさら悲しくなってくる。明神はそんなことを考えながら、暑さだけが原因ではない重い足取りで、目的地であるスーパーに向かった。
買い物を済ませうたかた荘に帰り着くと、姫乃は姿を消していた。スーパーでは、運がいいのか悪いのかちょうどタイムセールとやらにかちあってしまったらしく、殺気立った主婦にもみくちゃにされ、店を出た時には予定よりも随分時間が経ってしまっていた。
「まだ部屋かな」
内心「お帰りなさい」の言葉を期待していたので、少し物足りない気持ちになる。自分で部屋に行くように促しておいて勝手だと自嘲しながらも、とりあえずは「戦利品」を冷やすために管理人室に向かった。
「――あ、明神さん。お帰りなさい」
冷蔵庫に放り込んでから部屋を出ると、待ち望んでいた出迎えが来た。階段のある方向から来た事は別におかしくない。しかし、タオルを首に掛けていて、しかも髪が濡れているのは何故だ?
「おうただいま。風呂入ってたのか?」
「え? あ、ううん、髪洗っただけ」
うたかた荘の風呂は、赤貧にあえぐ管理人の取り決め――正しくは「懇願」――で二日に一度湯を張り替える事になっている。毎日水を抜いていたのでは水道代がかさむし、二人しか使わないので実際それでも不都合はなかった。姫乃が来るまでは、シャワーだけで済ませる事の多い明神は冬の間しか湯船に浸からなかった程だ。今日は「水を入れたままの日」だから、風呂に入りたければ追い炊きで沸かすだけなのだが、さすがに昼間からそういう気にはなれなかったようだ。軽くシャワーを浴びただけなのだろう。
「そ、そんな事より、何買って来たの?」
あたふたしながらあからさまに話題を変えようとする姫乃の反応が気にかかるが、自分が暑いさなか外出している時に、涼を取るような真似をしていた事を後ろめたく思っているのだろうと、明神はさして気に留めなかった。
「水瓜。あとで一緒に食おう」
「わあ、ありがとう!」嬉しそうに姫乃が駆け寄ってくる。彼女がすぐ横に立った時、あれ、と明神は思った。いつもと何かが違う。
「そういえば明神さん、遅かったね」姫乃の声が、そのわずかな疑問をどこかへ追いやってしまった。分からないのなら、どうせ大した問題ではないだろう。明神は、あっさりとスイッチを切り替えた。
「なんとかセールとかでオバちゃんが一杯いてさ。もう死ぬかと思ったよ。
……ところでひめのん、宿題は?」
「大丈夫! 今日の分は終わりましたっ」
ばねじかけのように背筋を勢い良く伸ばし、しゃちほこばって報告する姫乃の姿がおかしくて、濡れているのもお構いなしで姫乃の髪を思いっきりかき混ぜる。手のひらの下から彼女の非難まじりの悲鳴が聞こえてきて、ぐしゃぐしゃになった髪からは甘い香りが――
(――そうか、わかった)
明神はそこでようやく違和感の正体に気付いた。
姫乃は髪を洗ったと言った。ならば当然髪からはシャンプーの香りを漂わせているはずだが、今はそれがない。この前、「いい匂いだな」と言ったら顔を真っ赤にして、でも嬉しそうに笑ったその顔があんまり可愛らしかったのであの香りははっきりと覚えている。
思考が少し横道にそれてしまった様なので戻す。さらに踏み込んで考えてみよう。洗うわけでもないのにわざわざ髪を濡らすというのもおかしな話だ。
――つまり、結論は。
「ひめのん、風呂に潜った?」
半信半疑での問いだったが、姫乃は、悪い事が見つかった子供のように身をすくませる。本当に分かりやすい子だ、と明神は苦笑した。
「……わかっちゃった?」
「そりゃまあね。しかし小さい子供じゃあるまいし……」
「で、でも、水風呂に入ったおかげで涼しくなったよ。明神さんもどう?」
外から帰ってきたばかりという事もあり、その提案には逆らい難い魔力がある。反射的にうなずきかけた明神は、姫乃と目を合わせた途端言葉を失った。
水気を多く含んでいるために、文字通り透き通るような姫乃の肌。頬は、湯に浸かったわけではないので上気する事もなく、どこまでも冴え冴えとして白い。そこに髪の束が一つ二つ落ちかかっているのが、年齢には不相応な色気を醸し出していた。
強く引き込まれて目が離せなくなり、もう少し下に視線を向けると、拭ききれなかった水滴が鎖骨の上のくぼみにぽつぽつと乗っているのが見える。
先程姫乃の髪を撫でた時のものと同じ感覚が甦って来て、明神は急に息苦しさを感じた。いや、あれよりももっと強くて暗い衝動だ。
――触れたい。
「……明神さん?」
姫乃の声が、いつもより遠い。目眩に似た感覚に襲われ、明神は強く目を閉じた。
途端にいくつかの映像が、フラッシュバックのように断続的に現れては消えていく。水面を伝うように広がる黒い髪。その目は閉じられていて、濃い睫毛が瞼の縁を彩っている。生者のものとは思えない程白い肌。胎児のように丸く抱え込まれた細い手足。
それはきっと、この世のものではない美しさなのだろう。
全てを見てみたい。傷つける事になっても構わないという気さえしていた。正直にこの情動をぶつけたら、姫乃は自分を憎むだろうか。
「どうしたの? 大丈夫?」
心配そうに話しかけられて、本能に持っていかれそうになっていたのをぎりぎりのところで引き戻す。しかし、ひとかけら残った激情の残り火が、姫乃の首元に顔を埋めさせた。小さな体が強ばるのも構わず、そこに顔を押し付けたまま言葉を紡ぐ。
「――」
「えっ……な、に?」口の中だけで溶けて消えてしまうようなごく小さな呟きだったが、耳のいい姫乃には気付かれてしまったようだ。
明神は姫乃から離れながら、ゆっくりと瞼を持ち上げる。少女の首、顎、それから唇へと、徐々に目線を上げていき、最後に少し潤んだ黒い瞳が、自分の姿を映し込んでいる事を確認した。大きく息を吐くと、姫乃が不安気に尋ねてきた。
「明神さん……どこか具合でも悪いの?」
「ごめんな、寝不足みたいだ。ちょっとフラッとした」体力だけが取り柄なのに、よくも白々しい嘘をつくものだと、自分でも思う。
安心させるために、いつものように軽く姫乃の頭を叩いてやると、ようやく笑顔を見せてくれた。それを見てこちらも胸を撫で下ろす。これで良かったのだ。彼女と自分には、まだ時間が必要だ。
「ねえさっき、何て言ったの? 聞こえなかった」
明るく振る舞っているが、まだわずかに固さを残している姫乃の声。この流れで、まさか本当の事を言うわけにもいかない。さっき思い浮かべたものの中で一番印象に残っている光景が、とっさに明神の口を突いて出た。「――ひめのんの髪って」「うん」
「『クラゲみたい』って言った」
「…………え?」
姫乃が、口元に笑みを残したまま固まった。
「ひめのんの髪の毛って、潜ったら黒いクラゲみたいなんだろうなーって」
彼女の表情が今度はきょとんとしたものになる。明神は数瞬遅れて、ようやく今の失言に気付いた。
(しまった何言ってんだオレ――!)女の子の髪を例えるのにクラゲはないだろう、と今の発言を後悔しても、もちろん後の祭りである。
案の定姫乃の顔は次第に呆れた様子へと変化していき、変わり切った後には、ため息までつかれてしまった。
「明神さんの周りで女の人の話を聞かないの分かる気がする……」
姫乃は、付き合ってられない、と言いたげに頭を振った。再び自室に戻っていこうとする彼女を明神は慌てて引き止める。
「ご、ごめんひめのん! 今のは軽いジョークっていうか冗談で――」
「涼しくなって来たし、明日の分の課題もやっておきます。せっかく買って来てくれたのに悪いけど、水瓜は明神さんが食べて下さい」
事務的な口調でぴしゃりと言いつけると、今度こそ姫乃は廊下の向こうに消えてしまった。制止のために、前方に差し出されたままの腕が空しい。
「水瓜一玉って、かなりでかいんだけど……」
力無い呟きを聞くものは、当人以外誰もいなかった。
少女が去り、後に残されたのは、空気の読めない哀れな男。
(――あれをどうやって一人で片付けろっていうんだ。朝昼晩三食水瓜にすればいけるか? いやしかし――)
どうでもいいことで悩み始めた明神に追い討ちをかけるかのように、黒電話のベルが人気のないリビングに響いた。
おわり
あとがき
よりにもよってこのタイトルかよって感じですが、他に思いつかないし、後で「こんな話だった」とすぐに思い出せるのがいい題名なんだと思ってもうこのままにしときます。前向き。
少し前に上げた小ネタ1および2とかぶりまくってますが、元々は全て一つの話でした。散漫になって来たので、シングルカットするかのごとく切り出しました。そういう訳です。使い回しにも程があります。
あと風呂の捏造設定申し訳ありません。
BACK /
HOME