イヤホン


 明神が仕事(という名のボランティア)から戻ると、既に姫乃は帰宅していた。すっかりバネの甘くなったソファに座りこんで、雑誌を読みながら鼻歌を歌っている。「ただいま」と声をかけると、少女はようやく気付いたらしく顔を上げた。よく見ると彼女の耳からは一対のコードが伸びていて、その先はピンク色の小さい箱に繋がっている。サイズ的には大きめのマッチ箱といったところだろうか。どうやらそれで何か聞いていたので、反応が遅れたようだった。
「あ、おかえりなさい」
 姫乃はコードの片方を耳から外した。予想通りそれはイヤホンだった。
「何だ、音楽聞いてるのか? 随分小さい機械だな」
「へへ、いいでしょこれ。MP3プレイヤーだよ。入学祝いに買ってもらったやつ」
「エムピー……って?」
「……」
 心なしか姫乃の視線が痛い。また何かおかしなことを尋ねてしまったのかもしれない。明神は胸の内で冷や汗をかいた。
「と、ところで、何聞いてるんだ?」
 気まずくなってきたので話題を変えることにした。すると、興味を持ってくれた、と思ったのか、一転して嬉しそうに「新曲なんだよ」と姫乃が外した方のイヤホンを差し出してきた。受け取って拝聴する。歌詞は良く聞き取れなかったが女性ボーカルで、えらくハイトーンだというのだけは理解出来た。つまりはよく分からなかったということだ。
「最近の若い子の曲はサッパリだな」自分もそれなりに若いはずの明神は、イヤホンを早々に耳から外した。
「というか明神さんオリコンとか興味なさそうだもんね」
 やっぱりな、といわんばかりに明神のぼやきをさらっと受け流すと、姫乃はやおら横を向き「はい」と髪を耳に掛けた。イヤホンを返してくれということだろう。細い指がどけられると、形のいい、小作りな耳が現れる。こんなところまで華奢に出来てるんだな、となんとなく緊張しながら明神はイヤホンをつまんだ指をそこへ持っていった。
 余計なことを考えていたのが良くなかったのかもしれない。耳孔に軽く押し込むつもりだったのが、手元が狂ってしまった。明神の指が、姫乃の外耳の縁をなぞる様にかすめていき、薄い耳たぶに触れた。
「ひぁっ!」
 姫乃の甲高い声が、リビングに大きく響く。その一瞬後には、おそろしい程の沈黙が落ちた。
「……ひめのん?」
 ひとまず、先に戻ってきたのは明神の方だった。
「明神さんがっ、ヘ、ヘンな入れ方するからっ……!」
 それが引き金になったのか、耳を両手で押さえながら、姫乃はこれ以上ない程真っ赤な顔をして叫んだ。手が塞がっている状態にも関わらず器用にソファの端に移動する。行き止まりまで辿り着くと、今度は両足まで引き上げて縮こまってしまった。そのまま堅く目を閉じる。
 怯えて逃げ惑う小動物のようなその仕草を、呆然と見つめる明神。
(あ、やべ)
 ぷつんと頭の中のどこかが切れるのがわかり、彼はあっさりと本能に降伏した。

 姫乃は少しの間その体勢を保っていたが、明神が何も言わないので、おそるおそる目を開けた。するとなぜか自分を覆うように影が落ちている。振り仰げば、上空には笑みを顔一杯に広げた明神が――
「明神さ、ん?」「んー?」
「あの、明神さんの体がこっちに傾いてるような気がするんですけど」「気のせい気のせい」
「いや気のせいって……」「ひめのんは耳が弱いんだな。よくわかった」「わーっ、タンマタンマ!」
 もちろん、その頼みが聞き入れられるはずもなかった。


おわり



Memo(06/09/01分)から。人体パーツシリーズその1。


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