答えがほしい
※この話では、ケンもディンゴと共にカリストで働いているという設定になっています。
採氷労働者用の宿舎内の廊下は、経費節約のために必要最小限の照明と空調しか作動させておらず、薄暗く寒い。
シャワーをすませたケンは小さく身震いすると、自室へ戻ろうと足を速めた。湿り気を残した長い髪が、重たそうに背中で揺れる。
すると、向こうからべったべったといささかだらしのない足音を立てながら、すっかりそこら辺の一労働者然としている元「太陽系を救った男」がやって来るのが視界に入った。ケンに気付いた彼は、少しくたびれた様子でねぎらいの言葉を掛けてくる。
「おー、お疲れ」
「ディンゴ。会議は終わったの?」「ああ。役付きになると本当面倒くせえよな。ケン、お前替われよ」「無茶言わないでちょうだい。でも大変ね」
ぶっきらぼうな態度からは想像もつかないが、意外と仲間思いのディンゴは人望がある。
腕っぷしも強いため、それまでも自然と、荒くれ者の多い労働者達のまとめ役のようなものになっていたらしいが(リックが得意気に教えてくれた)、正式な「現場主任」になってからというもの、急に忙しさが増したようだった。
「それはそうとお前、今日一戦やらかしたんだって?」ディンゴはにやりと笑いながら、軽く握った拳を自分の顎の下にあてがった。
「お前を触った奴が言ってたぞ。『いきなりグーで殴られるとは思わなかった』ってな」
ディンゴが言っているのは、今日の昼過ぎに起こったハプニングの件だ。問題の「セクハラ男」は仕事中にも関わらず、以前からやたらと話し掛けて来るので、ケンは正直その男が苦手だった。
快活な裏表のない男で、悪い人間でないのは判る。しかし自分はまだこの仕事に完全に慣れておらず、したがってあまり能率も良くない。冷たい言い方になるが邪魔をしないで欲しいというのが本音だ。勿論そんな事を言えば「それじゃ手伝おうか?」などと言い出されかねないので黙ってはいるが。
通信機の調子が悪いとごまかして無視し続け、休憩のために一旦LEVを降りたその時、「ご苦労さん」と背後から声をかけられると同時に腰の辺りに妙な感触が走った。
触られた、と思った次の瞬間、不埒な行為を働いた男の顔面に、体重の乗った会心のパンチをくらわせていた。
「だってひ、人の……人のお尻を触ったのよ!」昼間の出来事を思い出し、ケンは怒りと羞恥で顔を真っ赤にした。
「ここじゃ女は貴重品だからな。ましてや若いのともなると尚更だ」とこともなげにディンゴは言う。
「だから黙って触られろっていうわけ!? ふざけないで!」
ケンは激昂した。腹が立ち過ぎたためか、赤い光が目の前で瞬く幻覚まで見た。潔癖すぎるきらいのある彼女には、ディンゴの軽口を冗談として受け流す事など出来ない。
「そういう意味じゃねえ。まあ悪いのは向こうだから、厳重に注意しておいた。気持ちは判るがあんま気にすんな、人間関係が上手く行かないと色々やり辛いぞ。特にこういう所は」
ケンの必死の反論に対して、ディンゴはひらひらと手を振ってやりすごした。
その仕草にケンは自分と彼との温度差を自覚した。あれほどまでに激しかった怒りの感情が急速に萎んでいく。
(……きっとこんなの、ディンゴにとっては大した事じゃないんだわ。少しは気にしてくれているみたいだけど、でもそれだって上司としての責任からのものだろうし)
そう考えると、ちくりとケンの胸が痛んだ。
「ディンゴは……私の事、どう思ってるの?」
反射的に訊ねた直後、ケンは我に帰った。頬が熱を持つのを感じる。この台詞にこの態度、まるで三文小説に出て来る愛の告白ではないか。
しかしケンの不自然な反応に気付いた様子もなく、ディンゴは髪を掻きあげたり腕組みをしたりして何やら考えている風だったが、にやりと笑うと、
「世話の焼ける女」
とだけ言った。
しかし表情とは違ってその口調には、いつもの揶揄するような響きは感じられない。不思議と穏やかですらある。
普段の彼でいてくれたら、ささいな発言の言葉尻を捕らえて軽く口喧嘩をして、先ほどの自分の失言をうやむやにする事ができるのに。勝手な事だとは判っていても、そんな考えで頭の中が一杯になる。
間が持たなくなって困ったケンが顔を上げると、どうやらずっとこっちを見ていたらしい、片目だけを晒した男の視線とかち合った。
「まあ、面倒の見がいはあるがな」
目をそらせなくなってしまったケンの瞳を覗き込むようにして、ディンゴは続ける。
冷たくあしらわれなかった事にとりあえず安堵するべきなのだろう。そう思い直して、彼女は自分を奮い立たせるためにいつもの小憎らしい口を利いてみた。
「面倒なんて見てもらった覚えはないわ。ノウマンに撃たれた時、あなたを世話したのだって私でしょ」
わざと恩着せがましく言いつのる。ディンゴが乗って来てくれれば、という思いを込めて。
「今までの事じゃねえよ」しかしディンゴは、呆れとわずかな苛立たしさの混じった表情で論点のずれを指摘した。
ケンは戸惑った。彼が何を言いたいのかさっぱり判らない。まるで哲学者と問答しているようだ。
「意味が判らないわ」
「自分で考えろ」ディンゴからは予想通りの反応が返って来た。
いつだってそうだ。彼は常に、頭の中に彼だけの解答を持っていて、自分はその事について何ひとつ教えてもらえたためしがない。
かけらでもいいから知りたいのに。
俯いてすっかり黙り込んでしまったケンを、ディンゴが出来の悪い生徒と相対する教師のようなまなざしで眺めている。
彼は大きくため息をつくと、やおらこちらへと腕を伸ばして来た。
それに気付いたケンが身を引くよりも速く、髪に手を差し込まれ後頭部に掌の感触がすると同時に力強く引き寄せられていた。次いで彼女の、おそらくは未だ赤みを保っているであろう耳朶に、温かな息がかかる。
「お前、顔が熱いぞ。体調悪いんだったら早めに寝ろ」
目の前にいる男に頬ずりされたのだと気が付くまでに、たっぷり十秒はかかった。
「な、何……今の……」状況を把握できない脳はオーバーフローを起こし、口は魚みたいにただぱくぱくとさせる事しか出来ない。顔のすぐ近くに心臓が移動したかのように、鼓動がいやにはっきりと感じられた。
「さあて、俺も風呂に入ってくるか」
ディンゴは長身を引き絞るようにして伸びをすると、呆然としているケンの頭をポンと叩いた。
「じゃあな」と短く言い残し、去ろうとした彼が、ああ、と何かを思い出して振り返る。
「さっきのはヒントだ」
答えが欲しけりゃ自分で出せ――ディンゴが暗にそう告げているのは間違いなかった。
その場に一人残される形となったケンは、密着した時のディンゴの体温や匂いを思い出し、何だかいたたまれないような情けないような気持ちになった。
顔がかあっとのぼせて、涙までにじんでくる。本当に熱が出て来たのかもしれない。そっと両手で頬を包み、内側にこもった何かを逃がすように擦ってみる。
「……ちっとも判らないわよ」ぽつりと呟かれた言葉には、全く力がこもっていない。
人気のない、しんと底冷えのする通路には、不可解な感情を持て余して立ち尽くす少女の姿だけが小さく浮かび上がっていた。
おわり
あとがき
今まで読書感想文やレポートしか書いたことのない人間が、多少なりとも創作性のある文章を書こうとするとどえらいことになるという好例。何の報告書ですかこれは。
こもってきます。そう山にでも。
BACK /
HOME